横幹連合ニュースレター
No.029 May 2012

<<目次>> 

■巻頭メッセージ■
「横幹的アプローチの提案:
データから情報、インテリジェンス、さらに戦略、施策へ」
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横幹連合副会長
科学技術振興機構
安岡 善文

■活動紹介■
●第33回横幹技術フォーラム

■参加学会の横顔■
◆日本行動計量学会

■イベント紹介■
◆「横幹連合定時総会」
●これまでのイベント開催記録

■ご意見・ご感想■
ニュースレター編集室
E-mail:

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横幹連合ニュースレター
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横幹連合ニュースレター

No.029 May 2012

◆活動紹介


【活動紹介】  第33回横幹技術フォーラム
    テーマ:「強いぞ日本〜社会情報学の視点から東日本大震災からの復旧・復興を考える〜」に参加して
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第33回横幹技術フォーラム

テーマ:「強いぞ日本〜社会情報学の視点から東日本大震災からの復旧・復興を考える〜」
日時:2012年 1月31日
会場:文京シビックセンター(最寄駅 地下鉄 春日,後楽園)
主催:横幹技術協議会、横幹連合
総合司会:櫻井成一朗氏(明治学院大学教授)
講演:戒正晴氏(明治学院大学教授、弁護士)、柴田邦臣氏(大妻女子大学准教授)、遠藤薫氏(学習院大学教授)

プログラム詳細のページはこちら

【活動紹介】
辻内賢一氏(日立製作所OB)

   横幹技術フォーラムでは、ここ3回に亘って、社会科学から見た東日本大震災をテーマとしてきた。今回の技術フォーラムのテーマは、「強いぞ日本〜社会情報学の視点から東日本大震災からの復旧・復興を考える〜」というものである。横幹協議会の桑原会長は、開会の挨拶の中で、「国内政治の混迷、欧州の経済危機、東日本大震災や原子炉の事故などを見ても、企業の方もリスクマネージメントについては、天災ばかりでなく、状況や人災によるリスクについて予め考えておく必要がある。それをどれだけ自分の知識や人の経験に貯めておき、自分はどうするのか、を考える事が不可欠である」と指摘された。これまでの講演で取り上げられたリスクや指針を宝として、「喉元通れば熱さを忘れる」にならないよう、気を引き締めて危機管理について考えたい。

   今回のトップバッターは、明治学院大学法科大学院教授として不動産法、民事法を講じている戎(えびす)正晴氏で、「東日本大震災からの復旧・復興における法的諸問題」と題して、法制度設計の観点から講演をされた。氏は、マンションや住宅団地などに関する法制度の専門家であるが、弁護士としても神戸で25年間活躍されており、阪神・淡路大震災においては「マンション建替え円滑化法」の整備などに尽力されている。東日本大震災に際しては、日本弁護士連合会(日弁連)災害復興支援委員会の委員として、また、日弁連が設置した「東日本大震災・原子力発電所事故等対策本部」のメンバーとして、現地被災者の法律相談に出向いたり、法制度整備の立場から、国会でのロビー活動などを行ったという。
   氏によれば、阪神・淡路大震災と比較して東日本大震災には、大きな違いがいくつもあったという。
(1) 広域災害であったこと。直下型であった阪神・淡路に比べて、異なる県や行政単位のいくつもに跨った災害であったため、救助の連絡などが容易には取れなかった。
(2)複合災害であったこと。地震と津波に加えて、原子力発電所の事故があり、これは(三原山の1986年の噴火などと同様に)長期の避難を必要とした。。
(3)住宅の減失や境界標の喪失、海没による土地の滅失などが見られたこと。阪神・淡路であれば、建物のがれきはその土地の上にあったが、それが別の土地にあったことで、所有者の同意を必要とする、がれきの撤去を難しくした。また、形の残った自動車や他所の会社の金庫などは、動産所有権の問題が生じ(所有者に返すべき)遺失物として扱われることから、これらの処理が難しくなった。不動産については、境界標の喪失や海没で復元が難しくなったという場合も多く、特に、水産工場をもとの場所に再建して生活基盤を立て直そうとする時などに、境界標の喪失が復旧を遅らせた。
(4)職場を含めて生活基盤の全てが喪失したこと。阪神・淡路であれば、近隣の地域では被害が少なかったことから、例えば、神戸の避難所から大阪の職場に通って仕事をすることができた。しかし、3.11の災害では、家族、住居、仕事のすべてを失ったという方も多く、特に、職場を流されてしまった住民にとっては、「二重ローン」の問題がより過酷になった。
   そして、「救助・復旧」「復興」の夫々のフェーズについて、主要な法律とその諸問題が解説された。

(1)救助・復旧フェーズ(人命救助、捜索、遺体収容、消火活動など)
   「災害救助法」「災害対策基本法」
   災害に際しては、国民の生命、身体及び財産を災害から保護するために、国が都道府県知事や公共機関に命じて、応急的な生活の救助を行うことが定められている。避難所や仮設住宅の設置、遺体の捜索なども、この法律に基づいており、この救助フェーズが長引いたことは今回の災害の特徴でもあった。しかし、先例を越えた事が、なかなか出来ず、未曾有の災害にも拘らず従前通りの基準で行おうとする。行政がその気になれば出来るのだが、逆に、行政が動かなければ何も動かない仕組みになっている。今回の災害では、地元自治体自体も被災し、職員も被災者であり、窓口機能を失ってしまった役所が多く見られたので、そこにだけ救助の責任を持たせている現行制度には問題がある。そして、現金給付の方が合理的な救援になる場合が多くあって法的にも可能であるはずなのに、国の方針として現物給付が行われている。これは、阪神・淡路以降もずっと議論され続けている問題であるという。
   「被災者生活再建支援法」
   住宅の被害程度が、全壊、解体、長期避難、大規模半壊である場合に、住宅の補修、建設・購入、賃借のための現金支給が受けられる。長期避難の認定は、従来はなかったのだが、原発事故によって新設された。これらの認定は自治体発行の罹災証明書に記載されるが、罹災証明書と建築士が行う建物危険度判定とは一致せず、また、保険会社の損害判定(全壊・半壊・一部損壊など)とも合致しない。被災者には、判定基準がバラバラで難しく判りづらいという。
(2)復興フェーズ(生活再建と町づくり)
   生活再建と町づくり、という問題に関しては、大震災であったために、その場所に当面は誰も住めなくなった状態からの「町づくり」という困難な課題に直面した地域も多い。2011年11月の補正予算で72億円余りの国庫支出が組まれたが、地域主権という建前があるので、国は口を出せない。ところが、主体となるべき地元の行政も住民も被災して疲弊しているので、町づくりのプランどころではない。東北地方整備局の専門チームが、自治体からの相談があれば計画立案を手伝えることであるとか、土木コンサルタントに委託すれば、地域にふさわしい町づくり計画を3月末を期限に計画できるといった仕組みは作られているが、本講演の時点では、まだまだ進んでいないそうだ。
   高台への集団移転を考えた町もあって、これだけ大規模な移転事業は初めての事なのだが、これまでの少人数の移転と異なり、病院や学校などのインフラも、やっと住民と一緒に移設できるようになった。しかし、もともと高齢化率の高い地域も多く、住民の50%以上が65歳以上という限界集落をどうするのか。そのままの人口構成で移転させて良いのか、という問題が改めて問われている。さらに、少人数の「残りたい」とする人たちのための行政サービスには予算がつけられないという問題もあるそうだ。
   戎氏は、阪神・淡路の際には、長田区の「まちづくり協議会」を支援されているのだが、阪神では当たり前だった住民参加の協議会方式が、東北では「行政の側で決めて下さい」とされることも多いという。町づくりには住民参加が不可欠なのだが、必要な情報を住民が持っていないことや、町づくりの判断基準に定まったものがないことから、現状では仕方の無いことのようである。そこで、氏は、基礎自治体の範疇を超えた広域災害に際しては、戦争による大規模な被災と変わらないとして、国民を保護するために国家に一定期間の非常大権を与えるなどの法改正が必要ではないかと提言する。復興フェーズの予算の執行においても、地方議会の動きは遅い。町づくりや集団移転に関しても、大規模災害を想定した事前の法整備が必要で、そもそも法律がなければ行政は機能できないのだ、ということを、氏は改めて想起させてくれた。
   町づくり以前の「がれき処理」の問題に関しても、海岸の管理が、ここは国交省とここは水産庁の管轄、そこからは自治体の管轄などと、縦割り管理の弊害があるために、がれきを一挙に片付けてから費用を按分するといった方法がとれないそうだ。

   ところで、戎氏は災害地の法律相談にも出向いているが、現地で相談されることが最も多い「二重ローン」の問題については、日本の住宅金融の見直しも含めて特別法が必要ではないのか、と氏は指摘する。米国では、物に貸したお金は、物が無くなれば返ってこないといい、つまり建物が喪失すればその建物に対する債務も消えるということのようだ。例えば、広域災害では「見なし破産」などの処理によって債務が帳消しにできて、その結果金融機関に不具合が生じた時には公金を投じて国が助けるなどの特別の法律が必要ではないか、と氏は指摘した。
   原発事故の賠償については、最初の和解案から拒否してしまうという(強硬な)現在の東電の姿勢からすれば、すんなりと行きそうにはなく、訴訟の嵐になる可能性が強い、という暗い見通しを述べた。
   総じて、救助・復旧、復興のいずれのフェーズにおいても、現地の住民の抱える問題を集約したり、住民に必要な情報を届けるための仕組みが足りないことを、氏は指摘した。IT技術が進歩したと言っても、普段から情報から切り離されていて「情報弱者」である限界集落の人々や、障害者、外国人たちに今のIT機器を、そのまま押し付けて、IT用語で話してみたところで意味はない。むしろ、各避難所での法律相談で数多く相談を受ける二重ローンの問題などをどこかで集約して、立法事実として行政に反映できる仕組みをどう作るかが重要であると述べて、氏は話を終えた。
   氏が矢継ぎ早に指摘した数々の行政上の問題点に、復興がなかなか進まない被災地の人々が感じているであろう歯がゆさを共有できたように感じた講演であった。

   次は、大妻女子大学の柴田邦臣氏で、「東日本大震災での情報ボランティアの実践」と題して、ご自身の現地での体験に基づく「思い出サルベージアルバム・オンライン」活動の内容を講演された。日本社会情報学会(JSIS)(注)には、同学会の研究委員会内に「若手研究者支援部会」(略称BJK)という学会内サークルがあり、柴田氏はそのメンバーの一人である。
   さて、柴田氏の友人の一人が住む宮城県山元(やまもと)町は、福島第一原発から北に60�離れた場所にある。大震災直後の交通手段が途絶したこの町に、たまたま柴田氏が東京から友人を車で送り届けたことが発端となった。山元町では、住民1万8千人の半数が津波で住居を失い、800人の命が震災当日に失われている。原発の近隣であったために、支援物資も充分には届かず、住民たちは一週間、「見捨てられた」と不満を感じていたそうだ。3週間後に再び現地を訪れた氏が目にした現実は、震災直後と何も変わっていない避難所の姿だったという。この町では、かねてから過疎高齢化が進んでおり、また数少ない若い人たちは、復旧作業に忙しいために、パソコンで必要な情報を整理したり、地元の情報を発信したりできる人が、いなかったのだ。マスコミの報道も三陸海岸と原発ばかりだったことから、柴田氏が東京にいて、山元町に支援物資を送るためには、現地の被災者がTwitterでつぶやく情報を集約するためのWebサイトを立ち上げる必要があった。氏が、このボランティア作業にJSIS-BJKのメンバーの協力を求めたことがきっかけとなり、彼らが災害情報支援チームとして山元町に入って、泥臭く地道なボランティア活動を始めることになった。柴田氏ら4名は現地に出向き、テントを張って「自活」しながら、避難所の体育館にネット環境を整えて行った。パソコンとプリンタで罹災証明書の発行などを行ったのが最初だった、ということだ。こうした作業を通して、彼らは「情報技術は被災地でどの様に役立てられるのか」をテーマに、日本の将来に関する重要な幾つかの問題を提起することになった。
   その避難所には、泥まみれのアルバムや写真が、自衛隊によって拾い集められていたという。写真には、人々が一緒に写ったものが多く、町の人と人との関係が写真の中に保存されていた。また、赤ちゃんや花嫁さんが一人で写っている写真には、撮る人と撮られる人の関係や思いも保存されていた。震災前のこの町での生活に「属して」いたものは、今では自分の身体と、こうした写真しかない。そこで、アルバムや写真の捜索と返却の支援のために、「思い出サルベージアルバム・オンライン」を立ち上げたのだという。写真の総数は、70万枚に達した。
【YouTube】思い出サルベージアルバム Memory salvage
   海水に浸かった写真は、富士フィルムの方によれば、保護膜の下のゼラチン質を海水中のバクテリアが食べてしまうために、放置すると映像が失われてしまうという。そこで、写真を洗浄してから番号を付け、(スキャナーでは上手くいかなかったので)デジタルカメラで複写して、全てをアーカイブに保存した。このため、全国に向けてTwitteで撮影ボランティアを募ったそうだ。 写真には、タグ情報をつけた。アルバムの場合には、場所名や地区名、旅行先名、(「成人式」「結婚式」などの)イベント名、そして、もし知人が写っていたらその人の名前を、アーカイブを見た人がパソコンで登録できるようにしたという。こうした情報が蓄積されて、写真の持ち主も自分の写真が見つけ易くなった。また、知人の名前や地区の繋がりから目指すアルバムが探し出せるということも多くなった。
   また、ばらばらの写真については検索が難しいものだが、顔画像の認識機能を使って、その場で撮影した自分の顔写真からアーカイブ上の写真が見つかることもあった。曖昧検索によって特徴が似た顔を抽出して、妹さんなど家族や血縁者の写真がヒットしたこともあったという。現状は、まだまだ、自分達の活動は「復興支援」だが、IT技術や情報リテラシーを現地に根付かせることで、例えば、被災者の起業や自立を促したり、被災者自身が何かを出来るようにして行くことが重要だと思うと、柴田氏は感想を述べた。「思い出サルベージアルバム・オンライン」活動のサイトは、こちらである。
   最後に、氏は、まとめとして次のように述べた。山元町は、育児世代の減少で過疎化高齢化が15年ばかり続いていた。光回線が引かれていないほどの、情報格差社会でもあった。若者がいないので、産業が興せない。社会関係資本も劣化しており、津波がそれを露呈させた。資源もない。正に、今日の日本社会が抱えている問題の縮図である。つまり、柴田氏のような「マルチメディアの社会的な影響」を研究テーマとしている人の知識が、もしも山元町で役に立たなければ、IT技術は、柴田氏自身の未来も救えないのではないか、と氏は指摘する。仮設住宅の前で、子供たちが元気に遊んでいる写真があるが、時折、子供たちの視線は、まじめに柴田氏らに向けられることがあるという。「私たち研究者が、ここで何ができるのかと、子供たちから問い詰められているように感じる瞬間です。」こう述べて、柴田氏は講演を締めくくった。

   さて、今回の技術フォーラムの最後は、学習院大学教授、遠藤薫氏である。氏は、日本社会情報学会(注)の要職を務め、社会システム論(社会変動における情報の役割)などの研究テーマに関して数多くの本を著している。講演タイトル「日本の災害復旧・復興における強さと課題」には、姪御さんが釜石で勤務していたとき、3.11の津波が自宅の僅か300mまで迫ったが危うく難を免れたという他人事ではない心情が強く反映しているように、筆者には思えた。氏は、先ず、日本社会の謎について、思いをめぐらす。「日本という社会は、自分たちの長所を余り認めたがらない社会ではないか? どうして、自分たちの良い所や強みを考えながら、復興を目指さないのでしょうか。」
   講演は、日本人の災害に対する心情を「桜」で象徴した、二つの事例を挙げることから始まった。陸前高田の「桜ライン311」。これは「次の時代が3.11の悔しさを繰り返すことがないように、今回の津波の到達点を桜の木でつなぎ、後世に伝えたい」として始まった桜植樹のプロジェクト。津波の到達点に桜を植えて、辛い記憶を美しく記憶し続けるための活動である。そして、もう一つは、震災以前に俳句についての映画を撮るために東北に滞在していて震災に遭遇した、イギリス人のドキュメンタリー映画監督ルーシー・ウォーカー氏の作品「津波そして桜」。この作品で、桜は、日本的な世界観、あるいは美意識の象徴として使われている。映画の中で、ある男性が桜についてつぶやく。「咲いても嬉しい、散っても嬉しい、これが日本人の心なんです。散る事が決して淋しい事じゃない」と。「震災で辛い思いをした被災者の心の根底には、同時に、全体を許容する世界観が流れている」と監督は言いたいのではないか、と、遠藤氏は考えたそうだ。
【YouTube】映画『津波そして桜』予告編
   しかし、日本人はどうして辛い記憶でも、それを美しく記憶しようとするのか。その理由を、氏は、地震などの大災害が、歴史上に頻発しているのにもかかわらず、ここまで豊かな社会として成立してきた日本の「不思議さ」に見ようとする。東日本大震災は「未曾有」の大災害であった、としきりにメディアで強調されたが、わずか160年歴史を遡っただけでも、マグニチュード(M)8以上と推定される地震は頻繁にあった。日本は本当にもう地震だらけ。江戸時代末期1854年の安政東海地震と安政南海地震(共にM8クラス)、その翌年の安政江戸地震(M7)。そして、明治29年(1896年)の明治三陸津波地震(M8クラス)では、死者行方不明者が2万人を越えている。その後も、関東大震災(1923年)では10万人以上の犠牲者を出し、また、第二次世界大戦末期1943年の鳥取地震、44年の昭和東南海地震、45年の三河地震では、大勢の死者、行方不明者を出したのだが、戦時中ということで極秘扱いにされた。NASAが発行した、1960年代以降の世界の地震分布図を見ても、日本は地震多発地帯の「ど真ん中」に位置している。例えば、地中海の大地震では、有名な都市国家ポンペイは、あっという間に滅びてしまった。こんな酷い状況の中で、日本はどうやって生き抜いてきたのか?
   氏は、その秘密を、日本特有の世界観、リアリズム・ミニマリズム・レジリエント(回復力の早さ)に見ようとする。鴨長明の「方丈記」には、同時代の酷い天災や飢饉の記録が並んでいるのだが、同書は「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」と書き始められてもいる。昨日有ったものが今日は無くなるかも知れないね、今日有るものも明日は無くなるかも知れないね。それがこの世界なんだから、と現実を認めた上で、しかし、必要最小限の環境で、あくまでも強靭に持ち直しつつ、したたかにしぶとく生きて行く。それが、日本人の無常観の底を貫いている思想なのではないか? 当時の民衆は、災害で社会に蓄積された様々な問題が露わになった時には、災害を逆手にとって、「世直しだ」と考えたのではなかっただろうか、と氏は指摘する。日本人は頻発する地震と共存するための世界観を、錦絵「なまず絵」のような笑いと、「桜」のような美しさ(美意識)に包んで感覚的に持ち続けてきたのだ、と論じる氏の視点は、被災という凄まじい状況から力強く立ち直り続けてきた日本の民衆に対して、とても温かい。防災工学における「レジリエント」(レジリアンス)の意味は、想定外の外乱に際して、そのシステム(社会など)の機能を持続しつつ効率良く回復できる、そのシステムの有する弾力性、回復能力、しなやかさを示す言葉だそうである。
   一方、西欧に於いては、ポルトガルのリスボンを中心に1755年に起きたリスボン大地震(M9と推定)で、ポルトガルは、当時スペインと並ぶ世界の覇権国であったのにも係わらず、約6万人の死者を出したこの地震を契機に、衰退してしまった。何が起きたのか? フランスの啓蒙思想家ヴォルテールは自著の小説「カンディード或は楽天主義説」(1759年)の中に、中世的な全能の神を信じる哲学者パングロスという架空の人物を登場させている。この世界は不幸や災難に繰り返し見舞われていて、リスボン大地震のような大災害も起きているというのに、哲学者のパングロスは、全能の神様が作ったこの世界ではtout est au mieux(すべての出来事は最善)であるはずだから、自分は le meilleur des mondes possibles (最善の可能世界)において生活しているのだ、と言い続けていた。しかし、結局、通りすがりの役人に捕らえられたパングロスは、理不尽にも絞首刑にされてしまう。内容豊富な好著、遠藤薫編著「大震災後の社会学」(講談社現代新書、2011年)を参考にしてこの話を補足すると、リスボンの4分の3を破壊し尽くしたこの大地震の後で、この国では、全滅を防ぐには盛大な火刑を公開するよりほかに有効な手段はないと考えて、実際に公開の場所で不審者をとろ火で焼くという盛大な儀式を行っていたのだという。哲学者パングロスは、旧体制の場当たり的な秩序維持策の犠牲者の役割を負って小説の中で殺されたのだ。この大地震の結果として「全能の神」に対する疑念が西欧に生じ、人智による自然の制御を追及する「近代合理主義」に人々の心が傾いた。その後の歴史では、「大航海時代にはスペインと並ぶ強国だったポルトガルは、新興国イギリスなどの猛追を受けた。この地震を契機に国力は徐々に衰退し、250年後の今日まで回復することがなかった」とされる。ヴォルテールが記した近代合理主義思想は、そのまま現代につながっている。人間が科学の力で災害に立ち向かい、被害を最小化しようとする近代合理主義。私たちも、東日本大震災に対しては「科学的に」物事を考えている。「しかし、今回の東日本大震災で、もう一つ明らかになったことは ・・・」と、遠藤氏は聴講者に問いかける。「科学で、本当に事足りるのか?」(リスボン大地震の時の哲学者のように、「科学は万能で、専門家がそれを進化させることによって今後の全ての災害事象が想定できるはずだ」と、ただ安心していても良いのだろうか?)遠藤氏、とても怖いことを、ここでさらりと仰っている。
   チェルノブイリ原発事故の年に、それを予見したかのように社会学者ウルリッヒ・ベックが著した「危険社会」という書物に記されている通りに、現代の我々の社会には、思いがけないリスクが潜在している。東日本大震災と、それに続く福島の原発事故は、そのリスクを正に現実化させた。リスボン大地震で、世界は科学的近代合理主義へと大きく転換して、それはそれで今日まで多くの成果を挙げて来たのではあるが、我々は、東日本大震災を契機に、もう一つ次のフェーズに対応すべき時に来ているのではないか? もちろん科学的、合理的に考えるのではあるが、従来とは少し違う考え方が必要なのではないか、と氏は強調する。

   ここで氏は「ちょっと違う角度から見てみます」と、このように言葉を継いだ。「多くの報道に接することで、私たちは被災者の辛さが分かったような気になっていますけど、被災者たちの心の内を理解することはできるのでしょうか。支援する、と言いますけれど、私たちに支援なんかできるのでしょうか。」
   危うく300mの差で、津波の難から免れた姪御さんと話した時に、多くを語りたがらなかった経験から「自分にはその胸の内は、ほとんど分からないのだろう」と氏は考えている。むしろ、被災者の心に寄り添い、彼らの復興して行こうとする生き方を支えることが必要ではないかと、氏は次の映像を示した。
   それは、あるドキュメンタリー番組の映像で、過去に繰り返された津波に日頃から備えて、地域の人たちを助け、メディアでも積極的に情報発信している旅館(岩手、宝来館)の女将さんや、被災者と大津波を取材しているときに5キロ先の自宅に残した母親が亡くなっていた撮影カメラマンたちを紹介した内容である。こうした、被災しながらも頑張っている人々の強さに、氏は敬意を表す。
   一方で、最近のテレビでは、執拗なまでの批判の応酬や、社会的信頼感を喪失させるようなニュースも多く、全体としては「無力感、漂流感が漂っている」気がするという。原因の一つには、大震災の直後に、社会的コミュニケーションが上手くいかなかった事が指摘される。その典型が、原子力安全・保安院や東京電力の発表で、「大丈夫です。安心です」と言う発表を当初は信じていたが、大丈夫でも安心でもなかったことが、次々と明らかになった。
   実務的には、リスク・コミュニケーションの管理が全く出来ていないからだ、と、氏は改めて思ったそうだが、そもそもリスク・コミュニケーションとは何か。問題が発生した場合には、とにかく正確で迅速な情報公開が重要であって、どこの情報ならば信頼できるのかを明確にして、不安感を持って問い合わせてくる人に対しては、きちんと答える双方向性が絶対に必要なのだ。これは、かつて1999年の東海村JCO臨界事故の際にも、さんざん言われた筈である。社会心理学の長い経験の蓄積からは、パニックやデマは「情報が隠されている。自分達には知らされていない」と皆んなが思うところに発生するのだ、と氏は指摘する。社会科学で言う現代の「リスク」は、普通に言われる「危険」とは違って「不確実な未来に関する危険、もしかしたらこうなる、という危険」を指すのだそうだ。今回の大震災や原発事故の問題も、この「リスク」の概念で考える事が必要であるという。
   筆者も、今回事故を起こした原発に関係した企業に勤めていた者として、重大な被害をもたらした事故を防げなかった事は、直接は従事していなかったが、断腸の思いを感じている。それがあって、より強く思うのかも知れないが、正しい情報は、なぜ公開されなかったのか。リスクに関する無理解ゆえに、だったのだろうか。 また、遠藤氏も指摘されるように、マスコミもただ批判を繰り返すのではなく、どうすれば私たちが、この社会に対する信頼感を取り戻すことができるかについて、その方法を考えて貰いたいものである。そのことが、被災者への救援や、被災地の復旧がまず第一に進められるようにと願っている、私たち日本人の多くの想いに寄り添った報道につながるのではないだろうか。
   遠藤氏は、こう話を続ける。ウルリッヒ・ベックが論じたように、かつての「被害者と作為者は別人」「問題になる被害は限定的局所的」で、対策としては「失われた利益を取り戻せば良かった」という時代とは違って、現在のリスクは、その影響がグローバルかつ計算不能で、被害者と加害者が分けられない、という困った構造になっている。ここに来て私たちは、かつての社会問題とは話が違う問題に直面しているのだ。
   東日本大震災が起きた瞬間から、世界のテレビはNHKワールドの再配信を行い、アラブのアルジャジーラでは、ネット上のライブ・ブログでその瞬間瞬間を日本の報道より詳しく伝えた。「YouTube」の津波の映像も、世界中から500万回以上のアクセスで視聴されている。海外のメディアは、大災害が日本一国の問題では止まらないことを、最初から理解していたようだ。世界中は、大災害に立ち向かう日本を支援するエールを送り、次に福島原発事故が起こると「日本は恐怖を発信している」と伝えた。いずれも当然の反応だろう。
   リスク・コミュニケーションに際しては、情報を隠さずに、聞かれたことには誠実に答える双方向性が必要だ、と氏は述べた。利害の相反する人たちが、対立するのではなく、冷静に事実に基づいた議論ができる場所として、氏が強調したのが「ニコニコ動画」や「YouTube」「Ustream」といったネット投稿サイトの存在だった。NHKの災害の報道映像を視聴者が勝手に、ここにアップすることは本来「違法」だったのだが、Twitterで災害情報を発信していたNHKの広報担当者は、自らの責任において、そうした投稿サイトの視聴を呼び掛けた。
   「Ustream」の場合は、母親が阪神・淡路の被災者だったという広島の中学生が、その使命感から違法を承知でNHKの災害放送をアップしたという。テレビが見られなくて困っていた人たちは、即座にその視聴を開始した。「Ustream」では、地震発生から十数分後にこの違法配信を確認したが、内容の公益性(非常時における多様な報道手段の確保)に鑑み、削除を自ら行う事はせず、メールでNHKに対し現状報告すると同時に現状追認あるいは自身による再配信を依頼した。それに対しNHKは、十数分後に再配信を許諾した旨を返信し、その後「正式な」再配信も開始した。また、民法数社もこれに倣った。これは震災当日の、地震発生から6時間くらいの間での出来事であり、このサイトの視聴者数は、震災前の5倍以上、133万人に上ったとの事である。氏は、このような縛りのゆるい、即応性のある「リスク・コミュニケーション」の場の確保が絶対に必要であることを指摘した。「どうしても最後まで無くせないリスク」が社会の中に存在しているのであれば、社会としてこれをどの様に共有し、どこまでその痛みを皆んなで分かち合い、どのような「社会」を形作って行くかについての合意形成が、その社会には必要となるためである。
   最後に、遠藤氏は苦言を呈する。世界のメディアは、日本の頑張ってる多くの人々を称賛して各人のエピソードを報道しているのだが、実は、NHKでも早くに報道されていたのに日本人は気がつかないで、海外から言われると始めて注目して称賛する。「それって変じゃないですか! 個人の行動に焦点をあてた報道は、我々の人生に物語性を持ち込みますから、自分たちの明日を考える上での、何かの指針になったりするんです。」
   前出の映画「津波そして桜」についても、映画を作ったり、報道してくれたことに対して、氏は感謝しているのだけれど、「不思議じゃないですか。桜だって震災だって、日本人が一番よく描ける筈のテーマなのに、どうして日本人が描かないのか?外側から見られるだけではなくて、内側から我々自身が、もうちょっと発信しても良いんじゃない?」と氏の口調が歯がゆそうに、不満げになる。そうか。だから、講演の冒頭で、氏は、「日本という社会は、自分たちの長所を余り認めたがらない社会ではないか? どうして、自分たちの良い所や強みを考えながら、復興を目指さないのでしょうか」と指摘していたのだ。
   そして、「我々だって、もっと我々が頑張ってたり、美しかったり、そういう事を心に刻みながら、私たちの『美しくて、しなやかで、したたかな』日本を作って行きたいなって、そんな風に思います」と笑顔で当事者目線の檄を飛ばして、氏の講演は終わった。がんばろう日本!

   総合討論での各氏の発言には、現場に立場を置く方々らしいお互いへの共鳴と謙虚さが感じられて、夫々の今後の仕事に対する意欲が、はっきりと滲んでいた。今回も、会場からの質問には、司会の櫻井氏が一件だけ読み上げて遠藤氏が代表して答えただけで、時間の制約から、残念ながら参加者全員による相互の意見交換を聞くことはできなかった。会場からの質問は、災害との共生の知恵 リスク・コミュニケーションやソーシャルメディアの活性化のためには何が必要なのか、と尋ねるもので、これに対して遠藤氏は、「震災以前から、日本は自信を無くし過ぎている。オープンマインデッドが欠けて、萎縮している。リスク・コミュニケーションという以前に、まずコミュニケーションが必要であって、もし対立があったとしても率直に話し合って、メタレベルでの社会的な合意形成を図る。そういう気持ちをまず確認することから、第一歩が始まる」とコメントされた。
   出口光一郎横幹連合会長は、閉会の挨拶で次のように述べた。東日本大震災では、(歓迎すべきことではないが)科学にとっての壮大な大実験が行われている訳で、その調査研究は我々が担って行かなければならない。しかし、個別の科学だけではこの問題に対抗できないので、連合を組んだ、そもそもの「理念」を実践すべき時であるとの自覚を持って、各学会の調査研究を交流しあう活動を開始したところである。いずれ成果を発表したい。いろんな分野が横に繋がる活動をして初めて、社会にとって有益なものとして纏まってゆくと考えている、と、今後に期待を感じさせる内容で締め括られた。 3.11の大震災に遭遇した日本には、今、悲しみと苦しみを乗り越えて強い意志を以って立ち直ろうとする人々と、より強靭な社会構築の手立てを研究し意欲的に支援しようとする人々、そして、その成果を実業で現実の社会に具体化して貢献しようとしている人々がいる。ここに政治の分野が追いついてくれば(本来は政治主導が先であるべきだろうが)とにかく「鬼に金棒」ではあるだろう。3回に亘って、そんな事を深く考えさせられた技術フォーラムであった。

(注) 日本社会情報学会(JSIS)は、本フォーラム直後の2012年2月28日に日本社会情報学会(JASI)と統合し、「一般社団法人社会情報学会SSI」に移行する運びとなった。



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